ヘブル 10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。
10:2 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。
10:3 ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。
10:4 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。

教会の礼拝などで行われる聖餐式を、新たに犯した罪を赦してもらうために頂くものと考えている人がいるかもしれない。
けれど、もしそうだとしたら、イエス様の十字架による贖いが不完全なものとなってしまう。
イエス様は、一度で完全で永遠の贖いを成し遂げられた、というのが聖書の語る約束である。
では、聖餐は何のためになされるのかと言えば、主イエス様が私たちの罪の身代わりとなって死なれたことを思い起こし、その事実を世に証ししていくために行われている。
もし、聖餐式によって新たに犯した罪が赦されるということを更新し続けて行かなければならないとしたら、いつまで経っても本当の平安はないはずである。
過去に犯した罪も、これから犯すであろう罪も、一切を引き受けてイエス様が十字架で死なれ、完全かつ永遠に贖いが完了しているからこそ、私たちは安心していられるのであろう。

イザヤ 53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

もし、聖餐式のたびごとに罪の償いと赦しが行われるのだとしたら、私たちは、イエス様を他の動物による生贄と同様に、何度も十字架にかけてイエス様を殺そうとしているようなものであろう。

ヘブル9:11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、
9:14 まして、永遠の”霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

イエス様が、たった一つしかない命を捧げ、あの十字架で死んで下さったからこそ意味があり、かけがえのない大切な命の代価によって救われた我々だからこそ、大きな価値があるのである。

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