ガラテヤ 1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。
1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
1:9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
1:10 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。
1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。

福音とは「良き知らせ」あるいは「グッドニュース」といった意味の言葉である。
しかし、人にとって何が良い知らせであるかは立場によって異なる。
人が何を求めているかよって、良い知らせかどうか異なってくるからであろう。
キリストの十字架の贖いによって全ての罪が赦され、復活による永遠の命にあずかることができるようになる、しかもそれは、ただイエス様を信じるだけで与えられるという。これが聖書の語る福音であろう。
しかし、多くの人にとっては、それは福音にはならない。
この世の富や名声、快適な暮らしなどを追い求めている限り、聖書の語る福音は、福音どころか、全く逆の要素ともなりうるのだろう。
我々も聖書に語られている福音の言葉を聞いて信じた者の一人として、果たして、その福音に生きようとしているか、改めて思い返してみたい。
何か偽りの幸いや、全く別の福音を喜んで迎えようとしてはいないだろうか。
もし何か別の喜びの知らせを待ち望んでいるとするなら、まさにそこを悔い改めるべきであろう。
しっかりと真実に向き合い、ただ、キリストの十字架と復活の御業によって、その約束を信じるだけで救われているという、これ以上ない素晴らしい喜びの知らせに満たされて生きていきたいものである。

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