ルカ 20:41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
20:42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。
20:43 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』
20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

イエス様の時代のイスラエルの人たちは、聖書に預言されたメシアの到来を、ダビデ王のような偉大な王様が立てられることと考えて待ち望んでいた。
だから、イエス様が来られた時には、多くの人たちが期待を裏切られる結果となっていったのであろう。
そして、民衆を教えていた律法学者たちは、こぞって長い衣をきて町を歩き回り、挨拶されたり、上座に座ることを好み、見せかけの長い祈りはしても、実態は、民衆にとっては、何の慰めも励ましも与えず、むしろ、やもめの家を食いつぶすような存在であったという。
ダビデのような偉大な王を求めることも、あたかも立派な指導者であるかのように振舞う生き方も、結局は見た目のことしか考えておらず、本質的なところでは的外れな生き方を模索していたことの現われと言えよう。
的外れとは、聖書でいう所の「罪」である。
富や権力、この世的な成功などを追い求め、人前では立派なことを言っても、その実態が、やもめの家をくいつぶすだけのような生き方を続けていても、なんとも哀れなだけである。
偉大なダビデ王ではなく、十字架で死なれたキリストを見上げ、人に見せるための行動や祈りではなく、誰も見ていない所でも変わりなく振舞い、やもめや困っている人たちを慰め、励まし、仕えていく、そのような生き方を選び取っていきたいものである。

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