ルカ 16:14 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。
16:15 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
16:16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
16:17 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
16:18 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」

直前の箇所で、イエス様が不正な管理人のたとえを語られたことに対し、金に執着するファリサイ派の人たちがイエス様をあざ笑ったことが記されている。
それに対するイエス様の言葉である。
金に執着する人たちは、どうすれば自分にとって益となるか、何が自分にとって都合が良いのかといったことがあらゆる行動の基準となっていたのであろう。
律法を守ることは、そのために利用する道具に過ぎなかったというのが本当の所なのであろう。
彼らの関心は、どれだけ戒めを守っているかどうか、そして、そのことで他人からどう思われているかが重要であり、律法の持つ本質的な意味になどまるで関心が無かったということだったのだろう。
離婚に関する規定も、戒めの言葉を都合よく解釈し、妻に少しでも気に入らないことがあれば、離縁状さえ書けば幾らでも離婚することができると考えていたようである。(申命記24章1~4節)
律法の戒めは、あくまで人間が自分自身の罪深さに気づき、神に赦しを乞うために記されているものであり、それを守れたから誇ってもよいというようなものではない。
むしろ、誇っている者こそ、律法の言葉の前に厳しく裁かれるべきなのであろう。
イエス様は「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消え失せる方が易しい」と述べておられるが、この世界が存在する間、律法が取り消されることはなく、どんな人間であっても、徹底的な裁きから逃れることはdけいないということを述べておられるのであろう。
そのことを知った者は、救いを求めるようになるだろうし、キリストの福音の言葉の必要性に気づいていくはずなのである。
そう考えていく時、律法の言葉を正しく聞いていくことの大切さを思う。
できない自分に気づき、自分勝手な自分など、本来ならあっという間に滅ぼされるべき小さな者であったことを覚え、そんな愚かな者を愛し、救って下さるイエス様のもとに身を寄せたいものである。

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