ルカ 13:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
13:11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
13:12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
13:13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
13:14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
13:17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
教会にお年を召され腰が曲がった方、生まれつきの障害で腰が曲がっている方、不治の病による痛みを抱えている方など、みな、常に痛みとの戦いだと思う。
自分自身も年齢を重ねるにつれて腰痛がひどくなってきているので、なんとか少しでも痛みが和らげられればと祈る。
体の痛み以外にも、人には様々な問題があって、祈っても祈っても何も変わらない現実を前に、だんだん、自分も本当は神など信じていないのではないかとさえ思えてくる。
しかし、それは現実であり、信仰が全くないわけでもない。
むしろ、我々にはできないことをイエス様はやって下さる。
我々にはできないからこそ、イエス様が十字架で死なれたのだ。
安息日に我々は神の御言葉を聞く。
それしかできないが、それが最も大切なことなのだろう。
そして、そこで出会う人たちを労り、共に神を礼拝できたら、それが一番幸いなことであると思う。