ルカ 12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。
12:59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
何が正しいか自分で判断しないということは、誰か他人の意見を判断の基準とすることで、自分では責任を取ろうとしない態度をとるということであろう。
誰がこう言っているとか、世間一般ではこうであるとか、一見、自分で判断しているようで、他人任せとなっていることに気づいていないケースも多いのではないだろうか。
自分で考え、自分で判断し、自分から行動していくことは、勇気がいることだし、その責任は常に自分にある。
しかし、そのように生きようとする時、自分では背負いきれない自分の罪深さに悩まされていく。
聖書は、その背負いきれない罪の責任について、キリストが十字架で支払って下さっていると語られている。
自分では負えない罪の責任をキリストに委ねることしかないということに気が付いた時、それを判断し、どう行動するか決めるのは自分である。
自分ではできない事と、自分で決めなければならない事の間にあって、信仰者は生きている。