ルカ 11:29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
11:30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。
11:31 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。
11:32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」
人は驚くような出来事や奇跡が起こると、神を信じようとする。
それが人間の業や自然の法則では成り立たないことであり、神が働いているとしか考えられないからであろう。
しかし、イエス様は、そういう捉え方を「よこしま」と表現している。
何かのご利益があったりしなければ信じないというのは、まさに、よこしまな思いが根底に流れているからなのだろう。
これに対し、イエス様はヨナのしるしの他には、しるしは与えられないと語られている。
おそらく、ヨナが大魚に飲み込まれたにも関わらず、奇跡的に生き返った出来事を差しているのであろう。
しかし、よくよく読んでみると「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように」と語られており、ニネベの人たちにとってのヨナは「大魚に飲まれたものの助かった人」ではなく、「町が滅ぼされないよう、悔い改めて神を信じるよう宣べ伝えた人」であったはずである。
もちろん、大魚に飲み込まれたがあ奇跡的に助かったという自分の経験談を話したかもしれないが、それはニネベの人たちにとっては、あまり関係のないことであったろうし、むしろ、にわかには信じがたいことであっただろう。
我々が普通にヨナ書を読んで「こんなことがあるわけがない」と思う気持ちと同じ気持ちを抱いても不思議はないからである。
ヨナのしるしとは、ヨナの説教を聞いてニネベの町の人たちが悔い改めて神を信じるようになったこと、なのではないだろうか。
あるいは、滅ぶべきはずだった人たちが、神の言葉を聞いて救われるということ、それがほんとうの「しるし」なのかもしれないのである。
もちろん、ヨナは特別ではあるが、イエス様が語っておられることは、我々にもできることなのではないだろうか。