ルカ 9:37 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。
9:38 そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。
9:39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。
9:40 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」
9:42 その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
9:43 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。

イエス様は、悪霊にとりつかれた子を癒してあげられない弟子たちを前に「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」と言って、その子から悪霊を追い出し、癒してあげられている。
このイエス様の言葉は、今もなお、私たちにも向けられている言葉なのかもしれない。
なんと信仰のない、よこしまな時代で、いつまでイエス様に我慢を強いるようなことを続けていることかと思うと、申し訳ない思いであるが、しかし、それゆえ、イエス様はいつまでも私たちと共にいて下さるのでもあろう。
信仰のない、よこしまな者で申し訳ない反面、だからこそ、イエス様が私たちのそばに寄り添い、いつも共にいて下さるのなら、それはそれで有難いことなのかもしれない。
信仰深い忠実な者でありたいと願う反面、自分が愚かで弱い存在であるがゆえに、神に愛される者とされている幸いを覚えたいものである。

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