ルカ 8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。
8:12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。
8:13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。
8:14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。
8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
イエス様が語られた種まきのたとえの意味が語られている
種は御言葉、そして、道端に落ちたものは、御言葉を聞くには聞くが、信じて救われないよう、悪魔がその御言葉を奪い去っていくことを意味しているという。
そして、石地に落ちたものは、御言葉を喜んで聞くものの、堅くて根が伸びないため、試練にあうと、すぐに身を引いてしまう人たちであるという。
そして、茨の中に落ちたものは、御言葉を聞いても、人生の様々な思いわずらい、富や快楽に惑わされ、実が熟するまで至らない人たちのことと語られている。
これらの例は、あくまで典型的な例を挙げたものであり、実際には、もっと様々な土地へ散らばっていると言えるだろ。
ただ、同様に言えることは、三つのケースでも語られているが、御言葉を聞くには聞いている、という事実である。
ヤコブ1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。
1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
自分の顔がどんなものだったかを忘れてしまうとは、よっぽどであると思うが、案外、よく言い表しているように思う。
自分がどんな者であるのか、どんな生き方をしようとsいているのかが見えていないのである。
いな、分かっているはずなのだろうけど、思い出したくないし、思い出せないのかもしれない。
罪に生きるものは、みな、そうなのだろう。
御言葉を行うことが正しいことと分かっていても、できないし、したくないのだろう。
主なる神様は、我々の人生の全てをご覧になる。
それをビデオに撮って、あとで見返すことができるのなら、どれほど自分の生き方がおろかなものであるか思い知らされるであろう。
はじめから作物を育てるのに適切な土地というものは存在しない。
良い地というのは、作物の成長にふさわしい栄養や条件を備えたものというより、人の手によって耕され、雑草を抜くなど、きちんと整備、管理された土地に過ぎない。
自分を見極め、自分自身の生き方も、きちんと整備、管理していくことの大切さを思う。