ルカ 6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

律法学者やファリサイ派の人たちは、善か悪かといったことに限らず、とにかく安息日には働くことが禁じられていると考えていた。
だから、たとえ目の前に困った人がいようとも、安息日には手を出してはいけないと考えるのである。
それで神に従っていると言うのである。
しかし、イエス様は、安息日の本来の目的は、人が癒され、平安のうちに過ごすことができるようにすることと考えられており、苦しんでいる人や困っている人を助けるのは当然と考えたのであろう。
実は、それこそ、神の働きの本質であり、安息日とは、神の癒しの業であったり、神の慰めの言葉を受ける日と考えるべきである。
そう考えるなら、我々もまた、神の安息をお届けする働きをしている間は、安息を届ける日となるのである。
そして、自分自身もまた、神のもとに立ち返り、神の恵みと慰めを受ける日を週に一度は持っていたい。
それが日曜日であり、礼拝において、神の恵みと慰めの言葉を受け取る日ということなのである。
安息の日を大切にしつつ、神の安息を届けていく働きに日常的に携わらせていただきたいものである。

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