ルカ 5:33 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
5:34 そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
5:35 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」
5:36 そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
5:37 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
5:38 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
5:39 また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

キリスト教会は、イエス様の到来以来、2千年にわたって、変わらぬメッセージを語り継いできた。
だから、基本的に同じメッセージを語り続けていても問題ではない。
しかし、語る人や聞く人は、常に入れ替わり、立ち替わり、替わり続けてきた。
時代も変われば、また、必要とされる「言葉」も違ってくるのかもしれない。
そんな時「今日」「この人に」「なぜ」このメッセージを語るのかということを思う時、古くて新しいメッセージを語ることの意味を思う。
変えてはならない所と変えなければならないところ。
きちんと見分けていくのは難しいことかもしれないが、今、この時代を生きる人たちに必要とされる言葉を取り次いでいきたいと思う。
言葉は生きている。
生きている人が語り、聞いた人が生かされる時、それは可能なのであろう。

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