ルカ 5:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
5:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
5:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
聖書を読んでいると、イエス様は気まぐれのように病に苦しんでいる人を癒してあげられているかのように見えることがある。
なぜ全ての人に同じようにしないのか、などと思う事もある。
しかし、全ての人が同じではないし、イエス様は人間の願いに応じるだけのお方ではなく、神ご自身として、御心に沿って行動されるお方である。
「私の願いを聞いてくれたら神で、聞いてくれなかったら神ではない」などといった考えは、まさに偶像礼拝のそれと変わりない。
なぜ、ある人を癒し、ある人は癒されないといったことが起こるのか、それはただ神のみぞ知る、ということであろう。
病を癒されてしまえば、それで満足してどこかへ行ってしまう人も多いなか、イエス様は癒された人に「だれにも言ってはならない」と戒められた。
イエス様のなさることが、単なる癒しだけに留まらないように注意が必要である。
大切なことは、癒され、清められた後、どう生きるか、である。