ルカ 4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
4:41 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
イエス様は悪霊を戒め、ものを言う事をお許しにならなかったという。
それは、いくら彼らがイエス様のことを知っていても、イエス様の名を用いることが証にはならないからであろう。
証とは、ただ単にイエス様のことを知っているとか、イエス様のことについて話しているだけではなく、このお方に自分は救っていただいたということを語り、イエス様こそ真の救い主であるということを自らの体験を持って語ることと言えるだろう。
大切なことは、知識だけではない、イエス様との人格的な関係にある。
だから救っていただいた人は、イエス様のために生きようと考えるし、他者に仕えようと考えるのだろう。
イエス様に救っていただいたのに、自分の事だけを考えて行動しようとしている人は、イエス様との関係が成立していないことになるのだろう。
それでは証にならない、ということであろう。