シュア人ビルダドは答えた。 いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。 なぜ、わたしたちを獣のように見なすのか。その目に愚か者とするのか。 怒りによって自らを引き裂く者よあなたのために地が見捨てられ岩がその場所から移されるだろうか。 神に逆らう者の灯はやがて消えその火の炎はもはや輝かず その天幕の灯は暗黒となり彼を照らす光は消える。 彼の力強い歩みも弱まり自分自身の策略に倒れる。 足は網に捕えられ落とし穴に踏み込む。 かかとは罠にかかり仕掛けられた網に捕まる。 綱が地に隠されて張り巡らされ行く道に仕掛けが待ち伏せている。 破滅が四方から彼を脅かし彼の足を追い立てる。 その子は飢え妻は災いに遭う。 死の初子が彼の肢体をむしばみその手足をむしばむ。 彼はよりどころとする天幕から引き出され破滅の王に向かって一歩一歩引き寄せられる。 彼の天幕には他人が住みその住みかには硫黄がまかれる。 下ではその根が枯れ上では枝がしおれる。 彼の思い出は地上から失われその名はもう地の面にはない。 彼は光から暗黒へと追いやられこの世から追放される。 子孫はその民の内に残らず住んだ所には何ひとつ残らない。 未来の人々は彼の運命に慄然とし過去になった人々すら身の毛のよだつ思いをする。 ああ、これが不正を行った者の住まいこれが神を知らぬ者のいた所か、と。
ビルダドの言葉は、もはや、一般論を通り越し、ヨブに対する厳しい裁きの言葉と化している。
神に背くものには、恐ろしい裁きや災いがもたらされ、今や、ヨブの置かれている状況からは、ヨブが神に背いているものであると認定せざるを得ない、ということなのだろう。
しかし、それもまた正しい言葉ではないのだろう。
人がどんな状況下にあっても、神に背いているかどうかは、まったく別の問題であるし、神が祝福されているかどうかということと、神に愛されているかどうかということも、全く同じではない。
ただ、神を見失い、神に背いているものが、愛に根ざした行動へと進むことができないことはそのとおりであろう。
ヨブを攻撃するビルダドも神を見失っているし、ヨブもまた、その攻撃に反撃している時点で、同様に神を見失っているのかもしれない。
売り言葉に買い言葉ではないが、言い争いも含めたあらゆる争いのなかには、神を見失った人たちがいることは確かなのかもしれない。
世界のいたるところに、神の平安がありますように。