ルカ 22:7 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。
22:8 イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
22:9 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、
22:10 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、
22:11 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』
22:12 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
22:13 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
22:14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
22:15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
22:16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
22:17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。
22:18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
聖木曜日、イエス様が弟子たちと共に最後の晩餐を取られた時のことである。
イエス様は、弟子たちとこの過ぎ越しの食事をしたいと切に願っておられたと述べておられる。
この過ぎ越しの祭りは、出エジプトの出来事を覚えるための祭りであり、奴隷の民から解放された事を神に感謝する祭りでもある。
もちろん、その過ぎ越しは、イエス様の十字架の贖いによって死と滅びから我々を解放する救いの約束のひな型でもあるため、イエス様ご自身がこの過ぎ越しの祭りの間に十字架で死なれたことは、単なる偶然ではなく、明確な意図をもって示された者であると言えよう。
すなわち、過ぎ越しの祭りは、イエス様の十字架を記念するためのものであるということである。
イエス様もそのことについては、はっきりと語られているし、この後、教会で行われるようになった聖餐式もまた、イエス様の死を記念するために行うのである。
もちろん、ただ単にイエス様が十字架で死なれたということを記念するだけではなく、「あなた方のためにさかれた体」「あなたがたのために流される血による新しい契約である」ことを世に知らしめるためのものである。
だから、聖餐式は、聖餐のパンとぶどう酒を受ける者がいて成り立つものであるし、いったいイエス様の十字架は誰のためのものであったのかということが明確にされることに意味があるのである。
イエス様の十字架は、この私のためである。
聖餐の恵みを受けるたびに、そのことを知ら締めていく者でありたいものである。