ヘブル 12:14 すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
12:15 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。
12:16 また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。
12:17 あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。
12:18 -19あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。
12:20 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。
12:21 また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。
12:22 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、
12:23 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、
12:24 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。

すべての人との平和と聖なる生活を追い求めよとの戒めは、どんな人をも愛すべきという大きな愛と同時に、どんな罪をも避けるべきとの戒めのゆえに、時に、相反することになるように感じられる時もあるかもしれない。
けれど、この二つの戒めを同時に可能とするために、キリストの十字架があるのだろう。
全ての人を愛し、救おうと願われたものの、人のもつ罪のゆえに、本来ならこれを赦すわけにはいかないのであるが、イエス様ご自身が十字架の死によって処罰されたからこそ、罪の赦しが完了している。
それほどに、神の義と愛は大きく、完全であり、だからこそ、我々も安心して神の救いの約束に身を委ねることができるのである。
イエス様の尊い犠牲のゆえに赦され、愛されている幸いを覚えつつ、畏れ多く生きていきたいものです。

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