申命記 5:23 山は火に包まれて燃え上がり、あなたたちが暗闇からとどろく声を聞いたとき、あなたたちの部族の長と長老は皆、わたしのもとに来て、
5:24 言った。「我々の神、主は大いなる栄光を示されました。我々は今日、火の中から御声を聞きました。神が人に語りかけられても、人が生き続けることもあるということを、今日我々は知りました。
5:25 しかし今、どうしてなお死の危険に身をさらせましょうか。この大きな火が我々を焼き尽くそうとしています。これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます。
5:26 一体誰が火の中から語りかけられる、生ける神の御声を我々と同じように聞いて、なお生き続けているでしょうか。
5:27 どうか、あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることをすべて我々に語ってください。我々は、それを聞いて実行します。」
5:28 あなたたちがわたしに語ったとき、主はその言葉を聞かれて、わたしに言われた。「この民があなたに語ったことを聞いたが、彼らの語ったことはすべてもっともである。
5:29 どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。
5:30 あなたは、彼らのもとに行って、それぞれの天幕に帰れと命じなさい。
5:31 しかし、あなたはここにとどまり、わたしと共にいなさい。わたしは、あなたに戒めと掟と法をすべて語り聞かせる。あなたはそれを彼らに教え、彼らはわたしが得させる土地においてそれを行う。」
5:32 あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。
5:33 あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。
イスラエルの長老たちは、神の御言葉を前に恐れおののき、モーセにのみ、み言葉の取り次ぎを任せようと願っている。
自分たちには、そのような高貴な働きに耐えられないと思ったからであろう。
神と人との間に立ち、その間を取り持つ者は、その尊い御言葉の前に、まず自分が試されることになるため、誰でもできるというものでもないし、誰もやりたがらないのが実情かもしれない。
そもそも、そのような尊い御業に耐えうる人などどこにもいないのかもしれない。
しかし、たった一人、人となられたイエス様だけがそれを全うしうるお方である。
もちろん、イエス様は神ご自身だから当然であるが、イエス様は、罪を犯さなかったという点以外、あらゆる点で我々人間と同じようになられたお方である。
唯一、イエス様だけが、この働きに耐えうる。
ゆえに、我々は、聖書の御言葉を聞くときに「主の御名によって」語られ、御言葉が取り次がれるのである。
御言葉を取り次ぐのはイエス様であり、説教者はそのイエス様の用いられる器に過ぎない。
ただ、その器もただの人間であり、尊重する必要はないと考えれば、この働きも滞ることになってしまうため、御言葉の働きに携わる人が起こされること、用いられることは尊ばれるべきであろう。
そもそも、罪人であるはずの人間が、イエス様の十字架と復活の贖いのゆえに、聖なるもの、神の子たる身分を与えられたものたちである。
そして、そのような人たちの集まりがキリストの体なる教会である。
一人ではなく、教会として活動していくからこそ、意味がある。
一人の人に何でも任せておくのではなく、キリストの体なる教会として、救いの御言葉を語り継いでいく、そんな働きが全うされていくことを願うものである。