申命記 4:41 モーセはその後、ヨルダン川の東側に三つの町を定め、
4:42 意図してでなく、以前から憎しみを抱いていたのでもないのに、隣人を殺してしまった者をそこに逃れさせ、その町の一つに逃れて生き延びることができるようにした。
4:43 それは、ルベン領の台地の荒れ野にあるベツェル、ガド領ギレアドのラモト、マナセ領バシャンのゴランである。
4:44 これから述べることは、モーセがイスラエルの人々に示した律法である。
4:45 イスラエルの人々がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げた定めと掟と法は次のとおりである。
4:46 それは、ヨルダン川の東で、ヘシュボンに住むアモリ人の王シホンの領土にあるベト・ペオルの前に広がる谷においてなされた。モーセとイスラエルの人々は、エジプトを出た後、この王を撃って、
4:47 その国を占領し、更にバシャン王オグの国を占領した。すなわち、ヨルダン川の東側に住むアモリ人の二人の王の国を占領した。
4:48 それは、アルノン川沿いのアロエルからシオンつまりヘルモン山に及び、
4:49 ヨルダン川の東側のアラバ全域を含み、ピスガ山のすそ野にあるアラバの海に達していた。
全体的に厳しい言葉や戒めが多いと思われがちな旧約聖書だが、実際には、慰めと配慮に満ちた言葉も多く記されている。
この「逃れの町」という発想も、明確な意思を持って人を殺してしまったのではない場合など、意図せずして隣人を殺してしまった場合故について、きちんと裁きをうけさせなければならない一方で、完全に生きる権利を奪われるのではなく、どこか別の場所で生活が保証されるような仕組みが設けられており、罪はきちんと裁きつつ、人を愛するという思想が見受けられる。
それは、キリストの十字架の贖いの御業にも通じるものであろう。
神は義なるお方、一切の罪は裁かれなければならない。
一方で、神は愛なるお方、全ての人を救いたいと願われている。
その二つの思いを完全なる形で実現されたのが、あの十字架である。
そう考える時、キリストこそ、我らの逃れの町であるということが分かる。
もしかすると、逃れの町で暮らす人のほうが許された喜びや生かされている感謝を感じながら生きられて幸いなのかもしれない。