ローマ 12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
12:4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
12:5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
12:6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、
12:7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、
12:8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
この秋、知り合いの牧師が辞職したという知らせを聞いた。
残念なことである。
しかし、与えられた務めを終えたと考えるべきであろう。
どんな働きでも、始めるに時があり、終える時がある。
たとえ牧師とて、その働きができなくなれば、終わりである。
そして、それは、周りの者がとやかく言う事でもない。
主なる神様と召された当人との間の問題であり、働きが許されている間は、その働きを全うするのみであろう。
ちなみに、昨夜の「西郷どん」の最後のセリフは「もうここらでよか」というものであった。
十分に自分に与えられた務めを全うした達成感に満ちた言葉であった。
私にも、いつその時が来るのか分からないが、その時が満ちるまでは、自分にできることを、賜物を活かしていくだけである。