ローマ 9:19 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。
9:20 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
9:21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
9:22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、
9:23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。
9:24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。
9:25 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
9:26 『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
9:27 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。
9:28 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」
9:29 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」
9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
9:31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
9:33 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。
10:1 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
10:3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
10:4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

造られた者が造った者に「どうしてわたしをこのように造ったのか」とつぶやくことは愚かなことであろう。
まず、神を見下しているし、神が造られた御業を否定することにつながりかねないからである。
あるいは、なぜ人はどのようなつぶやきをするのかと考えた時、やはり、どれだけの業が行えたかどうかによって物事を判断しているからと言えるのではないだろうか。
自分よりできる他者を妬み、恨み、怒る。
そんなことをしても、自分を変えられるわけでもないのに、ずっとそんなことを続けているのだろう。
神は、その人の業によって、愛されたり、救われたりされるのではない。
もし、そのような基準で人を救おうとされたのなら、この世の誰一人救われることは無かったであろう。
そうであるならば、この私が救われたことは、大いに誇るべきことであり、喜ぶべきことである。
このような思いに到達することが、本当の意味での義なのだろう。
妬み、恨み、怒り、そんな思いからは、何一つ、幸いなことは生まれてこない。
そもそも、そのような感情に至る「業」重視の考え方から脱却することが大切であろう。
そのために、思い切り、イエス様の救いの約束に身をゆだねる者となれますように。
イエス様に申し訳ない、などといった思い上がった心ではなく、ありがたく身代わりの死を感謝しますといった気持ちで、イエス様の十字架にあずかる者でありたいものである。

Write a comment:

Your email address will not be published.