ローマ 8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
8:36 「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

御子をさえ惜しまず死に渡された方が、御子と一緒に全てのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。
全くその通りである。
しかし、誰もがこのみ言葉をそのまま「アーメン、主よその通りです」と言い切ることができているだろうか。
ほとんどの人が「ここにこう書いてあるのに、なぜ願い通りにならないのか」と悩んでいるかもしれない。
そもそも、人は何をもって幸いと思い、何を求めて生きているのだろう。
案外、普通に暮らせて、普通に働けて、ある程度の収入があって、時には旅行でも…そんな平穏な日々を想像しているかもしれない。
そして、それが適えられないと「自分は不幸だ」などと思うのかもしれない。
でも、果たしてそうのような生活が本当に幸せなのだろうか。
周りの人たちと同じように生きることや、何不自由なく暮らせることを求めているならば、そうかもしれない。
しかし、キリストに愛されていること、救いの約束を頂いていることは、そのようなまやかしの幸いとは違う。
キリストにある救いの約束は永遠に損なわれることのない命の約束である。
この世の一見幸いに見えるようなものは、みな、永遠ではない。
誰もがそのようなまやかしに翻弄されているが、本当に必要なことはもっと別のところにある。
それを確実なものとするために、キリストは命をかけて、我々の救いを全うされたのである。
何を見、何を求めて生きていくかは、人それおぞれであるから、強勢することはできないが、キリストの十字架の御業によって得られる幸いに心を留め、本当に幸いな人生を生きることができればと願う。

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