マルコ 12:35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
メシア、すなわち、キリスト(救い主)としてこられるお方について、律法学者たちの見解は、かつてダビデが偉大な王としてイスラエルを統治し、世界にも誇れるような王国を築いた政治的、軍事的な王を期待していたのであろう。
それゆえ、メシアがダビデの子であるということが重要であったのかもしれない。
しかし、聖書が語るところのダビデの子という意味は、確かにダビデの子孫からメシアが生まれることには違いないが、ダビデもそうであったように、我々と全く同じ人間として生まれられる、という意味であろう。
メシアが人間であるということは、一見、弱い存在でしかないかのように思えるが、神ご自身が我々人間と同じ姿となられたことに意味がある。
ヘブル2:14 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
2:16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
我々と同じ人間だから、人としての痛みも苦しみも恐れも悲しみも、すべて理解して下さるばかりか、それらをすべて取り除くために命を捧げられたお方、それがメシアなるキリストなのである。