詩篇 63:1 【賛歌。ダビデの詩。ダビデがユダの荒れ野にいたとき。】
63:2 神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは 乾ききった大地のように衰え 水のない地のように渇き果てています。
63:3 今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み あなたの力と栄えを見ています。
63:4 あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。
63:5 命のある限り、あなたをたたえ 手を高く上げ、御名によって祈ります。
63:6 わたしの魂は満ち足りました 乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい わたしの口は賛美の声をあげます。
63:7 床に就くときにも御名を唱え あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。
63:8 あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。
63:9 わたしの魂はあなたに付き従い あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。
63:10 わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ 陰府の深みに追いやられますように。
63:11 剣にかかり、山犬の餌食となりますように。
63:12 神によって、王は喜び祝い 誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように。
神への賛美を歌った詩篇であるが、この詩篇の作者は、疲労困憊し、疲れ切った中で、主への賛美を歌っている。
心も体もボロボロで、立ち上がることさえしんどいような状況であったかもしれない。
おおよそ、そんな状況の時、神への賛美など歌えるような状態ではないことは明らかであろう。
だとすると、この詩篇は、心の中の呻きであったかもしれない。
心の底から助けを求めたような叫び、それが神への賛美である、ということなのだろう。
喜びに満ち、元気いっぱい賛美の声をあげるだけが賛美ではなく、もしかしたら、このような状態における賛美こそ、真実な賛美と言えるのかもしれない。
私たちの教会には、お年寄りや病を抱えた人も多く、決して元気な賛美が捧げられているとは言えないかもしれない。
かすれるような、口から空気が漏れているような賛美だったとしても、むしろそれで良いのかもしれない。
賛美において大切なことは、神への感謝、そして祈りであろう。
悩み多きところに真の賛美があるのかもしれない。