詩篇 60:1 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。ミクタム。ダビデの詩。教え。
60:2 ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。】
60:3 神よ、あなたは我らを突き放し 怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください。
60:4 あなたは大地を揺るがせ、打ち砕かれた。どうか砕かれたところを癒してください 大地は動揺しています。
60:5 あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた。
60:6 あなたを畏れる人に対してそれを警告とし 真理を前にして その警告を受け入れるようにされた。〔セラ
60:7 あなたの愛する人々が助け出されるように 右の御手でお救いください。それを我らへの答えとしてください。
60:8 神は聖所から宣言された。「わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。スコトの野を測量しよう。
60:9 ギレアドはわたしのもの マナセもわたしのもの エフライムはわたしの頭の兜 ユダはわたしの采配
60:10 モアブはわたしのたらい。エドムにわたしの履物を投げ ペリシテにわたしの叫びを響かせよう。」
60:11 包囲された町に 誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。
60:12 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは 我らと共に出陣してくださらないのか。
60:13 どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。
60:14 神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。

イスラエルの民は、神がこの世界に真の救いと真理を告げ知らせるために自分たちの民族をお選びになったという自負心を持っていた。
しかし、度重なる敗北を経験し「なぜ神はわれらを見捨てられたのか?」といった思いに悩んでいたのであろう。
しかし、イスラエルであろうと、誰であろうと、常に勝利者である者などいない。
むしろ、そのような考え方のほうが危険であるし、敗北の中に学ぶこともあるのだ。
最初に「自負心」という言葉を用いたが、自負心と信仰は違う。
もっと言えば、勝利と信仰もつながってはいない。
我々が考える勝利とは、自分の都合のよい形になることではない。
むしろ、自分の都合やエゴを優先し、思い通りにならなければならないと考える自分自身に打ち勝つ時こそ、真の勝利なのだろう。
そこへ辿り着くために、信仰が必要なのだろう。
このような敗北も苦難の時も、そこから学び、考える。
そのような中で、主が共に歩んで下さることを祈りたい。
それが信仰者にできる歩みなのだろう。
結果的に勝利するかどうかではなく、どんな時でも主に祈りつつ歩めることのできる人こそが、本当の勝利者なのではないだろうか。

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