ヘブル 1:5 いったい神は、かつて天使のだれに、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。
1:6 更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。
1:7 また、天使たちに関しては、「神は、その天使たちを風とし、御自分に仕える者たちを燃える炎とする」と言われ、
1:8 一方、御子に向かっては、こう言われました。「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、また、公正の笏が御国の笏である。
1:9 あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」
1:10 また、こうも言われています。「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。もろもろの天は、あなたの手の業である。
1:11 これらのものは、やがて滅びる。だが、あなたはいつまでも生きている。すべてのものは、衣のように古び廃れる。
1:12 あなたが外套のように巻くと、これらのものは、衣のように変わってしまう。しかし、あなたは変わることなく、あなたの年は尽きることがない。」
1:13 神は、かつて天使のだれに向かって、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるでしょうか。
1:14 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
神の御子であられるイエス様が天使にまさる存在であるという事について語られている。
それは、イエス様を天使の長かなにかのごとく捉える人々に対する論証にもなっているのであろう。
イエス様には全ての権威が与えられているし、10節の表現を見ると、イエス様が明らかに天地創造に関わられた真の神であられることにも言及されている。
イエス様は真の神である。
真の神であられるからこそ、その方の命の犠牲によって支払われた救いに意味があり、価値がある。
一方、天使は被造物である。
被造物の命を捧げたところで、神の側には、何ら痛むことも無いし、何度でも造って、何度でも捧げることが可能となってしまうが、イエス様が真の神だからこそ、一度きりの十字架の御業がどれほど尊いものとなるのかということを知ることができるし、そのような尊い犠牲をもってまでして私を救おうとしてくださったイエス様の愛により、生きる喜びを与えられるのである。