1コリント 11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
11:30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
11:31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
11:32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
11:34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。

イエス様が制定されたパンとぶどう酒を頂く聖餐式について、パウロは「ふさわしくないままで」あずかるべきではない、と記している。
これを「洗礼を受けている」とか「信仰告白をしている」といった事柄だけで考えていると、十分ではないように思う。
仮に、イエス様を救い主であると信じて信仰を告白し、洗礼を受けていたとしても、己の罪に対する悔い改めと、そのために主イエス様が死なれたという事実を、パンと食べるたびに、ぶどう酒を飲むたびに思い起こすのでなければ、主の聖餐にあずかる意味はないし、聖餐にあずかるたびに、そのような悔い改めと信頼の心が問われている、ということであろう。
つまり、そのような姿勢で聖餐式に臨んでいるかどうかが、ここで言われている「ふさわしい」か「ふさわしくないか」ということなのであろう。
もちろん、信仰を告白し、洗礼を受けていることは重要であるし、イエス様を自分の救い主として受け入れていることは重要である。
その上で、聖餐にあずかるたびに、イエス様が私のために十字架で死んで下さったのだということを証していく機会として、大切に守っていきたいものである。

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