1コリント 10:23 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。
10:24 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。
10:25 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
10:26 「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。
10:27 あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
10:28 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。
10:29 わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。
10:30 わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。
10:31 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
10:33 わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。
11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

この世のものはすべて神が創られたもの。
それゆえ、それ自体で「汚れている」といったものはなく、それをどう用いるかによって聖なるものとなったり、邪悪なものとなったりするのであろう。
コリントの手紙においては、食べ物に関して書かれているが、食べ物だけでなく、我々が行うこと。行動や働き、あるいは、文化的な活動なども、それを何のために行っているかということが問われてくる。

先日は、ある方と、キリスト教以外の葬儀に出席するべきかどうかについて話す機会があったが、キリスト教だからと言って頑なに他宗教の葬儀に出席することを拒むなら、それは同時、他宗教の葬儀に出席している方々に、キリスト教の葬儀に出席するなと言っているに等しいこととなる。
そのような偏狭な考え方を持ち続けるならば、この世の誰にもキリストの福音を宣べ伝えることなどできなくなる。
しかし、イエス様は「全ての人の罪の贖いのために」十字架にかかられたのであるし、十字架の上で「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分で何をしているのかわからずにいるのです」と言って、とりなしの祈りまでも捧げて下さったお方である。
私たちは、このようなイエス様の思いにしたがって行動すべきであり、安易な考えで「これは聖なるもの、これは汚れたもの」などと言って、身勝手な判断で断絶すべきではないことは明らかである。
もちろん、イエス様以外のものに心を奪われてしまうようなことは言語道断であろうけれど、愛と忍耐の心を持って、絶えず祈り続けながら、どんな境遇にも身を置くことのできる心を保ち続けていきたいものである。
それがここで言われている「良心」というものなのかもしれない。

Write a comment:

Your email address will not be published.