1コリント 9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、弱い人に対しては弱い人のようになる、とのパウロの言葉は、相手の立場を理解し、共に歩んでいく上では重要な事である。
しかし、それはとても難しいことである。
それでもパウロがこのように記したのは、イエス様が神の子たる身分でありながらも、それに固執することなく、己を空しくし、人となってこの世に来られたという事実があってのことであろう。
フィリピ 2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
イエス様があらゆる点で私たち人間の悩みや苦しみ、嘆きや悲しみを全て味わい尽くされたからこそ、私たちのことを理解して下さっているし、慰めと救いの約束を頂くことができるのであり、私たちは、そのような者として神の御前に立たせていただけるのである。
このような約束があるからこそ、私たちもまた恐れることなく勇気をもって歩むことができるし、パウロが語っているように、どんな境遇にも身を置くこともできるということなのであろう。
自己保身に走る者は、結局、周囲からの信頼も含めて、何もかも失っていくことになるだろう。
そうではなく、愛を持って他者を理解し、他者と共に歩む道を模索していくならば、自分も相手も祝福されるだろうし、何より、神の国における栄光の冠を受け取ることができるのである。
やがて朽ち果ててしまうようなこの世の栄冠ではなく、永遠に滅びることのない御国の栄冠を目指して歩んでいきたいものである。