ヤコブ 2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

人は行いによって救われるのではなく、信仰によって救われる、という言葉があるが、それは、「行い」によって救いを達成することではないという意味であって、良き行い全てを否定するわけではない。
むしろ、信仰は必ずその人の行動に現れてくるものであって、信じているけど何もしない、ということはあり得ないということであろう。

ヨハネ8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

イエス様は、女性に対して、罪の赦しの宣言と共に「これからは、もう罪を犯してはならない」と言って送り出している。
何か、良い業をするというわけでなくても、これからは罪を避ける生き方を選択していくということも大切なことであろう。
何も行わないというわけではなく、生き方が変えられていくという風に捉え、主のものとされた新しい人生を歩んでいくことを大切にしていきたいものである。

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