ヤコブ 2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
行いによるのではなく信仰によって救われるということを強調したマルティン・ルターは、これらのみ言葉のゆえに、ヤコブの手紙をわらの書簡と呼んだそうであるが、キリストを信じる信仰によって救いの約束を頂いた者が、その後の生き方がそれまでと全く変わらないのであれば、確かに、その信仰が生きているとはいいがたいのかもしれない。
大切なことは、イエス様によって救っていただいたことをきちんと受け止め、それが何のためにもたらされたのかを覚えながら、少しでも御心に適う生き方へと歩みを進めて行こうとするところにあるのだろう。
できるかどうかはまた別の問題ではあるが、そのような意思を持つことは大切なことである。
心が変えられていけば、自ずと行動もそれに沿ったものへと変えられていく。
まずは、しっかりと十字架のキリストを見上げ、どれほど大きな代価を支払って神のものとされたのかを覚え、救われたものであることを喜び、感謝のうちに、神が私に求めておられることを少しでも果たしていけるよう取り組んでいきたいものである。