ガラテヤ 6:11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。
6:13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。
6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
6:17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
6:18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。
主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものがないというのは、パウロの偽らざる気持ちであろう。
そして、この十字架によって、世はわたしに、わたしは世に対してはりつけにされているという。
つまり、イエス様の十字架と結ばれることによって、世はもはや自分にとって、また、自分も世に対して死んだも同然ということであろう。
つまり、自分にとって、世の事柄は、それほど心を惹かれるものでもないし、自分もまた、世の中に対して認められたいとか、賞賛されたいとか、そういう思いは無い、ということであろう。
もちろん、だからと言って、もはや自分はこの世の何ものにも興味も感心も持たないし、自分もこの世に全く必要とされていない、といった意味でもない。
むしろ逆で、何ら賞賛されることや認められることがなくても、世に対して奉仕していける、そんなパウロの強さを表している表現なのだろうと思う。
私も、そんなパウロのように、自分にできる事や委ねられたことを淡々とこなし、他人からの評価など意に介さず、ただ、キリストの十字架を見上げながら、周囲の方々にキリストの恵みと祝福が及んでいくことを願いつつ、そのために仕えていけたら、と願うものである。