ガラテヤ 2:15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
2:17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。
2:18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。
2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
2:21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

パウロが言う「異邦人のような罪人ではない」との言葉は、「律法の言葉を知らないで生きているのではない」との意味であろう。
律法の求めていることは知っているし、可能な限りそれらの戒めは守ろうとしている。
けれど、律法を守ったから救われるのではなく、むしろ、律法は己の罪深さを知らされるばかりで、自分を救いうるのは、キリストの十字架の贖いと復活による救いの約束だけであるということを語っているのである。
もし、人が7己の善き業によって救われる可能性があるのだとしたら、キリストが十字架で死なれる必要はなかっただろう。
けれど、イエス様は、私を愛し、救おうとされ、十字架で死んで下さったのである。
このお方を信じ、このお方が私の内に住まわれ、生きておられるから、私もまた生きている。
キリストの十字架の死と復活を無意味なものとしないよう、信仰の生涯を歩んでいきたいものである。

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