ガラテヤ 2:11 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
2:12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
2:13 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
2:14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
イエス様の弟子であったペテロや、パウロが最も頼りにしていたバルナバさえ、大勢の同調圧力に屈し、見せかけの行いに引きずり込まれていったと記されている。
人は、それほどに、大勢による同調圧力に弱い。
「周りのみんながそうだから」とか「お友達みんなが持ってるから」とか、本来、間違っていたり、必要であなかったりしても、人は簡単に同調圧力に屈していく。
どうしてもっと本質的に物事を考えていけないのかと思うのだが、周りの人とは違う行動をとったり、特殊な考え方をすることは、自分を孤独にさせたり、時には、敵対感情さえ持たれることもあり、やはりそれが恐ろしいから、なかなか単独での行動というわけにはいかないのであろう。
他人とは違っていても、自分が正しいと思った事をつらぬいていくことは、とても勇気が要るし、エネルギーも要する。
それを可能にすることができるのは、イエス様にある無限の愛を受けるしかないだろう。
無限の愛に守られているならば、たとえどんなに孤独を感じるような時も、決して一人ではないし、キリストの愛に押し出されて、なすべき務めへと導かれていく。
そんな生き方でありたいものである。