ガラテヤ 1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。
1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。
1:13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。
1:14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
1:15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、
1:16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、
1:17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
1:18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、
1:19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。
1:20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。
1:21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。
1:22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。
1:23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、
1:24 わたしのことで神をほめたたえておりました。
パウロの召しは、人を通してというより、直接イエス様からの啓示を受けてのものであったため、その後の行動も、単独行動をとることが多かったようである。
しかし、そのため、どうしても、既存の教会などの組織や共同体からの信任や支援を受けにくいものとなってしまうため、どちらかと言うと一匹狼的なものとなりがちであったのであろう。
もちろん、パウロとしても、単独で行動することを願っていたわけではなく、同じ信仰者の仲間に加え入れてもらえれば、活動の幅も広がるし、ありがたいと考えていたことと考えていただろう。
ただ、既存の組織が出来上がっているところに、後から入っていくことはなかなか難しいものがあるため、パウロは、人知れず苦労を強いられていたものと思われる。
既存の組織があることは、良い面もあるが、弊害が無いわけでもない。
ユダヤ人のグループに、割礼を強いるような動きがあったことが記されている通り、一旦グループが形成されれば、そこに、保守的な考え方が形成されていくものである。
パウロは、そのような保守を打ち破り、異邦人へも福音が宣べ伝えられていくために、必然的に、このような召され方をしたのかもしれない。
パウロ本人にとっては、試練でしかなかっただろうけれども、それが用いられたという事であろう。
世界には、パウロのように、なかなか周囲から理解されず、孤独な戦いを強いられる人も大勢いるのだろう。
けれど、その働きが本物であるなら、悩むことは無い。
信念を持って続けていくだけである。
組織の力に頼り、信念を妥協してしまうくらいなら、孤独でも、自分に委ねられた働きを全うする方が良い。
そんなことを思わされるパウロの召しと行動である。