ゼファニヤ 3:9 その後、わたしは諸国の民に 清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え 一つとなって主に仕える。
3:10 クシュの川の向こうから わたしを礼拝する者 かつてわたしが散らした民が わたしのもとに献げ物を携えて来る。
3:11 その日には、お前はもはや わたしに背いて行った、いかなる悪事のゆえにも 辱められることはない。そのとき、わたしはお前のうちから 勝ち誇る兵士を追い払う。お前は、再びわが聖なる山で 驕り高ぶることはない。
3:12 わたしはお前の中に 苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。
3:13 イスラエルの残りの者は 不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。彼らは養われて憩い 彼らを脅かす者はない。

イスラエル、とりわけ、その聖地エルサレムがきな臭い。
いつ、大きな戦争が始まってもおかしくない状態である。
このような時期に、イスラエルを訪ねようと考える人は、まずいないだろう。
これまでに、何人もの人から「あなたはイスラエルにいくべきだ。行って、イエス様の過ごされた地からいろんなことを学んでくると良い」というお勧めを頂いた。
しかし、本当にそうなら、今のこのような時こそ、行って学ぶべきことがあるのではないだろうか。
「今は時が悪い」と多くの人は言うだろう。
しかし、エルサレムに、そのような「良い時」があったのだろうか。
常に血なまぐさい争いがあり、暴虐や反逆、様々な悪が積み重ねられてきた地である。
キリストの十字架もその一つ。
エルサレムに行って学ぶべることは、確かに多くあるだろう。
しかし、聖書のみ言葉を読めば、そこにすべてが書かれている。
何も、見て、触れて、味わって確かめてみなければ受け取ることのできないものばかりでなく、むしろ、見たことも、確かめたともない恵みを、私たちは聖書のみ言葉から信仰を持って受け取ることができるし、むしろ、そちらのほうが幸いなのだ。

ヨハネ20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

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