マタイ 24:15 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
24:16 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
24:17 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
24:18 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
24:19 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
24:20 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
24:21 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
24:22 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。
24:23 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
24:24 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
24:25 あなたがたには前もって言っておく。
24:26 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
24:27 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
24:28 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」

世の終わりが近づき、様々な予兆が起こるであろうと聖書には語られている。

神戸で地震が起こった冬の寒い日、聖書学院の屋上から異様な光景を眺めていた。
寒くて上着を取りに部屋に帰ろうにも、怖くてなかなか部屋に入れない、そんな日のことを思いだす。
教会へ赴任し、子供が生まれたばかりの頃には、こんな日が今やってきたら大変だろうなあと思ったものである。
蒜山で働いていた頃は、山にいるから逃げなくても良のだろうか?などと思ったこともある。
結局、いつ、終わりの時がやってくるかわからないから、いつでも心の準備をしておく、それだけであろう。
そして、慌てないこと。
慌てたところで、ちっぽけな人間にできることなど何もない。
その日、その時には、それこそ神の御手に全てを委ねることしかできない。
神は荒れ野でも、奥の部屋でも、どこにでも共にいて下さるのだから。

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