マタイ 23:37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
23:38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
23:39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
24:1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
24:2 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

キリストを受け入れようとしないエルサレムの民も、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言うときには、主を見ることになる。
つまり、それは、地上にいる間は、ずっとキリストを受け入れようとせず、苦難が続くということだろう。
それでも、終わりの時には、主を見上げることになるのだろう。
彼らが最終的に救われるのかどうかについては、ここだけの記述だとよく分からないが、分かっていることは、この世に生きている間、自ら不安と恐れ、苦難に満ちた生涯を選択しているということなのだろう。
キリストは、今日も我々を、めん鳥が雛を羽の下に集めるように優しく包み込もうとしておられる。
有り難いことであり、無理に拒絶するようなことでもないことと思うが、現実はなかなか難しい。
人はなぜ自ら苦難を選び取ろうとするのか。
一人でも多くの方が主のもとに立ち返り、平安な人生を送って欲しいと願うばかりである。

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