イザヤ 11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち
11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊。
11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。
11:4 弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
11:5 正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。
11:6 狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。
11:7 牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。
11:9 わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。
11:10 その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

救い主なるキリストは、我々と同じ人間として、この世に来られた。
しかも、その姿は、我々人間と全く同じ、一人のみどりごとしてお生まれになった。
なぜそのような仕方だったのかということを考えた時、全ての人と同じ、か弱い存在となられることで、弱く、小さな者たちの立場に立って物事を考え、行動することができるからなのだろう。
弱いものたち、小さな者たちの苦しみを理解することができるのは、同じ立場にある者だけであろう。
ならば、この世に公平な裁きをもやらすことができるのは、ひょっとすると、このような幼子たちなのかもしれない。
誰もが、弱く、小さい、幼子の頃があったはず。
その頃のことは、すっかり忘れてしまったが、心だけは、幼子のままでいたいものである。

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