イザヤ 7:18 その日が来れば主は口笛を吹いてエジプトの川の果てから蠅をアッシリアの地から蜂を呼ばれる。
7:19 彼らは一斉に飛んで来て深い谷間や岩の裂け目に宿りどの茨にも、どの牧場にも宿る。
7:20 その日には、わたしの主は大河のかなたでかみそりを雇われる。アッシリアの王がそれだ。頭髪も足の毛もひげもそり落とされる。
7:21 その日が来れば人は子牛一頭、羊二匹の命を救いうるのみ。
7:22 しかし、それらは乳を豊かに出すようになり人は凝乳を食べることができるこの地に残った者は皆、凝乳と蜂蜜を食べる。
7:23 その日が来ればぶどうの木を千株も育てうるところ銀一千シェケルに値するところもすべて茨とおどろに覆われる。
7:24 茨とおどろがこの地を覆うので人は弓矢を持ってそこへ行かねばならない。
7:25 鍬で耕されていた山々にも人は茨とおどろを恐れて足を踏み入れずただ牛を放ち、羊が踏み歩くにまかせる。
主の裁きがなされると、地は荒廃し、茨やおどろに覆いつくされるだろうと語られている。
かつて、千株ものぶどうの木が生い茂っていたぶどう畑も、茨に覆われてしまうという。
いかにも荒廃した様子のように描かれているが、神が創られた自然という観点から言えば、特別に不思議な事でもない。
ただ、人間にとって都合が良いか悪いか、豊かな実りをもたらすかどうか、あるいは、人がその畑を整備し、維持管理できているかどうか、それだけの違いであろう。
つまり、荒廃とは、人の手が入らないため、人間の願うような収穫を得ることのできない状態、とも言える。
世界が荒廃している、と考えるのは、地が人間にとって豊であると思える産物をもたらしていないからであるが、そのために人が労して実りを得ようとしていないからなのかもしれない。
人は働かなければ実りを得られず、豊かにはなれない、ということなのだろう。
神から与えられた勤めを己のなすべき仕事として受け入れ、感謝し、誠実に実りをもたらしていくために額に汗を流し、労していけたら、と願う。