イザヤ 6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよいよく聞け、しかし理解するなよく見よ、しかし悟るな、と。
6:10 この民の心をかたくなにし耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなくその心で理解することなく悔い改めていやされることのないために。」
6:11 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく家々には人影もなく大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。
6:13 なお、そこに十分の一が残るがそれも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。

7月17日に、日本福音大阪教会にて、宗教改革500周年記念合同礼拝なるものが行われ、大勢の方が集い、共に礼拝にあずかることができた。
その中で、教会讃美歌235番を賛美した時、「聖なる万軍の主」と三回繰り返すところが分かりにくかったようで、途中から会衆の賛美が乱れてしまって、どこを歌っているのかわからなくなった人たちが続出した。
あまりなじみのない讃美歌だったために、多くの方々が歌詞よりも楽譜の方を注視していただろうし、「三回くりかえす」と記されているところが少しかすれていて「二回くりかえす」のように見えていたことも影響したかもしれない。
楽譜の右下に、きちんと歌詞の全部が記されていたので、ここを三回繰り返すということは、わかる人にはわかるし、そもそも聖書のイザヤ6章の歌であるということを知っているならば、ここは三回繰り返すのは当然でしょう、と言われるかもしれない。
けれど、それは知っている者の傲慢であり、不慣れな人にも参加しやすくしてもらうためには、もう一工夫、配慮が必要だったのでは?とも思う。
たとえば、少人数でも聖歌隊を置くとか。

いずれにしても、この讃美歌は、預言者イザヤが見た幻を歌ったものであり、今日の日課の箇所と結びついた素晴らしい賛美であることには違いない。
それだけに、きちんと唱和できれば、なお良かったなあと思う。
イザヤが見たセラフィムとは、どんな姿であったか。
また、それがどれほど力強い賛美の歌であったか。
神殿の敷居が揺れ動いたほどであるというのだから、相当な力強さであったことだろう。
そう思うだけに、余計に残念な出来事であったが、中にはきちんと三回繰り返して歌われた方もいらっしゃるだろうし、そもそも賛美したのは我々人間ではなくセラフィムなのだから、よしとしましょう。

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