マタイ 17:22 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。
17:23 そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
17:24 一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。
17:25 ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」
17:26 ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。
17:27 しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

神の国のことを大切にして生きようとする時、この世との関わり方は常に問題となってくる。
ある人は、この世は悪に満ちた世界で、これらとの関わりを一切捨てるべきと考える人もいるかもしれない。
しかし、主なる神様は、この世界に生き、この世界を管理するよう人を置かれたことを思うとき、決してこの世の事柄をないがしろにしても良いということではないことは明らかであろう。

テトス 2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

聖書には、不信心と現世的な欲望を捨てて生きるよう勧められるが、同時に「この世で」生きる事を勧めており、思慮深く、正しく、信心深く生活するよう勧めているのである。
この世が悪いのではなく、この世でどう生きるか、何のために生きるか、それが問われているのであろう。
あらゆる不法から贖いだし、良い行いに熱心な民として生きるよう、神はキリストの代価を支払って神の国の民として買い取って下さったのである。
人の世を隔絶した生き方、浮世離れした清貧な生き方よりも、むしろ、人の中に生き、人と共に生きながら、神の愛の形にならう生き方へと用いられていくことを願うばかりである。

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