マタイ 16:1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
16:2 イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、
16:3 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
16:4 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
しるし、とは、証拠のことである。
つまり、イエス様が真の神であるという証拠をみせろ、というのがファリサイ派とサドカイ派の人たちの主張である。
イエス様が真の神でり、真の救い主であるということを示すためには、人にはできない、神にしかできない業をやってみせろ、というものであろう。
これに対し、イエス様は、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられていないという。
ヨナのしるし、とは、旧約聖書に語られているヨナの話にあるように、魚に飲まれて三日三晩してから吐き出されて生き返る、という出来事であろう。
つまり、イエス様が真の神であり、真の救い主であるというしるしは、イエス様が十字架で殺された後でなければ見ることはできない、というのがイエス様の主張であろう。
しかし、人々は、その時になっても信じる人は信じるし、信じない人は最初から信じようとしないものである。
イエス様はそれをご存知であられたから、このようなことを言っておられるのだろう。
奇跡が起きたり、人間には不可能と思われるようなことが起これば神を信じる、と言っている人は、仮にそのようなことが起きたとしても信じるかどうか疑わしい。
なぜなら、イエス様はもうよみがられたのだから。
それをこの目で見なければ信じないと言ったとしても、イエス様の時代の多くの人たちも同じであった。
信じる人は信じるし、信じない人は信じない。
しるしは信仰には必要ない。
ただ、信じるだけである。