マタイ 15:29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
イエス様は、村々を回り、神の国の福音を説き、病に苦しんでいる人たちを癒してあげられた。
しかし、ここでは、イエス様は、ガリラヤ湖のほとりに行き、山に登って座っておられたところに、大勢の人々がやってきて、癒しを求めたということが記されている。
イエス様としては、しばらく、ひっそりとしたところで、静かに祈る時を持とうとされていたのかもしれないが、人々はそれを許してはくれず、イエス様は休む暇もなく働き続けたということなのであろう。
今、巷では、ある方が亡くなられたことで、家族がそっとしておいて欲しいと願ったということが報道され、報道する側の在り方なども問われている。
しかし、そもそも、人に注目してもらってなんぼの世界の中で働いている者にとって、それは避けられないことであろうし、そっとしておいて欲しいと言われても、それは難しいことなのだろうと思う。
その務めに召された者の責任と使命ということなのだろう。
もちろん、自ら好き好んで選んだのではないものもあろうけれども、召された者は、その召しに従って歩んでいくしかないし、それを続けていくことが結果的には最善となっていく。
エペソ4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、
4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、
4:3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
教会はキリストの体である。
その一部として召された者ならば、その体の一員として、一致して歩むべきであろう。
いろんな人がいて、意見が合わないこともあるかもしれないが、召して下さったのはキリストである。
キリストに従うことは、教会の働きと共に歩んでいくことである。