マタイ 9:27 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。
9:28 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。
9:29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、
9:30 二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。
9:31 しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
イエス様は二人の盲人をお癒しになったが、その時の言葉は「あなたがたが信じているとおりになるように」というものであった。
つまり、彼らは、イエス様なら、自分の目を開くことができると信じていたということであり、それがその通り実現したということである。
ただ、自分が信じた通りになるというのは、自分の願い通りになる、というのとは若干異なっている。
自分の願う通りになる、というのは、単なる願望であって、あくまで自分の思いにしがみついている状態であろう。
しかし、「イエス様ならできる」と信じることは違う。
それは、イエス様に信頼することであり、言い換えるなら、イエス様にしがみついていくことであろう。
「あなたがたの信じている通りになるように」とのイエス様の言葉に信頼した結果、彼らは癒されたのである。
イエス様を信じる、ということは、たとえ自分の願い通りにならなかったとしても、イエス様が願われたことならば、それが最善であり、必ずそうなると信じて従っていくことである。