マタイ 8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

イエス様が癒しの業を行われた時、それを他人に言いふらすのではなく、祭司に報告するよう命じておられる。
具体的な癒しの業よりも、神との関係を重視する言葉であると考えられるのではないだろうか。
人はともすると、結果にこだわるきらいがある。
けれど、そこに至る過程であったり、そうなったあと、どのように神との関係を保って生きていくか、そういった事の方がよほど重要であるという事なのではないだろうか。
何をするのも、どこへ行くのも自由ではあるが、神と人との関係が適切に保たれているのでなければ、自分勝手で、傲慢なだけの歩みとなってしまうだろう。
間違いを犯すことは誰にでもあるし、今自分がどこにいるのか、見えなくなってしまう事のほうが多いのは常である。
神と人との関係を適切に保ちながら、自らの歩みを見出していける者でありたい。

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