マタイ 27:57 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。
27:58 この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。
27:59 ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。
27:61 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。
27:62 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、
27:63 こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。
27:64 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」
27:65 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」
27:66 そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。
聖書には、あえてイエス様が復活しなかったといった虚偽の証をされる可能性があったことを記している。
こういうことが書かれていると、それを元に、いろいろと調べたり、でっち上げたりする危険性があるにも関わらず、あえて記しているのは、それほど、キリストの復活の出来事に信ぴょう性があり、信じるに値する出来事であると考えられていたからなのだろう。
そもそも、キリストを信じない人たちは、あえて聖書の中に間違いがあるとか、真実ではないことを証明する必要などないはずであろう。
信じたくないのなら、無視すればいいだけの話である。
だから、聖書に誤りがあると主張する人に対しては、こちらも対抗して聖書の正しさを論証しようとしなくても良い。
信じたいから信じる、それで十分であろう。
ただ、信じることによって我々に喜びや平安が与えられていることは事実であり、それを否定しても無意味であるし、イエス様を信じる者は、信じた通りに生きればよい。
アリマタヤのヨセフは、人からどう思われようと、自分の信じた通りに行動し、その名が聖書に記録された。
我々も、自分で信じた信仰に従って行動し、命の書に名が記されていることを覚え、喜んで生きていきたいものである。