創世記 2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼうまさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

神が最初に人を創られた時、そこには祝福と恵みが満ちていた。
まず、エデンの園に人を住まわせ、そでは人が生きていくのに十分な食べ物があり、そこを耕し、守る務めも与えられていた。
そして、人が一人でいるのは良くないと思われた神は、ふさわしい助け手として妻を与え、家族が共に生きる幸いをも整えられたのである。
このあと、彼らは罪を犯し、堕落してしまうのであるが、当初の人が生きる目的や環境などは、実は何も変わっていない。
人が生きていくための恵みは十分に備えられているし、人がこれを耕し、守っていくことも何も変わっていない。
家族が与えられ、共に生きていくことも同様である。
ただ違っているのは、人は罪を犯し、自分の欲望のためにこれらの目的や環境を、神の意図された方法とは異なる目的で用い始めたということであろう。
目的が間違っているなら、同じ生きるにしても、間違った方向へ進んでいってしまう。
だから、大切なことは、神が意図された人が生きる目的を見失わないことであろう。
私たちは、神に愛されるために生きている。
神に愛され、働き、家族を持ち、神の意図された人として生きる。
そのような人生を歩んでいきたいものである。

Write a comment:

Your email address will not be published.