創世記 2:4 主なる神が地と天を造られたとき、
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
2:10 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
2:11 第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。
2:12 その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。
2:13 第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。
2:14 第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。

創世記1章では、天地創造の御業について、ある程度順序立てて淡々と語られていたが、ここでは別の観点から、人がどのように生きるものとなったかということが語られている。
人は、土の塵で形作られ、その鼻に命の息が吹き入れられ、生きるものとなったと言う。
物質的には地にあるものと何ら変わらないもので作られてはいるものの、人が単なる物質的な塊ではなく、そこに、神の息吹が宿る生きるもの、命ある存在として作られたということであろう。
命があり、生きているからこそ、人である。
死んでしまえば、その肉体は土に帰る。
しかし、命は神から与えられたもの。
決して粗末にしてはいけないし、それは自分に対しても、他人に対しても同様なことが言える。
互いに愛し合うとは、そういうことであり、命を大切にする、ということであろう。

話は少しそれるが、私は極端な延命治療は不要ではないかと思っている。
何度か、臨終に直面している方をお見送りしたことがあるが、必要以上に延命措置を続けることで、目に見えて体に負担がかかっていることがわかるからである。
召されようとしているのに、なんとか一命をとりとめるために、最後に苦痛を増やすのはいかがなものか、そういう考えである。
できることなら、最後くらいは安らかでありたいと思う。
それが本当の意味での命を大切にすることだと思うからである。

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