民数記 9:9 主はモーセに仰せになった。
9:10 イスラエルの人々に言いなさい。あなたたち、もしくはあなたたちの子孫のうちで、死体に触れて汚れている者、あるいは遠く旅に出ている者も、主の過越祭を祝うことができる。
9:11 第二の月の十四日の夕暮れにそれを祝い、酵母を入れないパンと苦菜を添えてそのいけにえを食べなさい。
9:12 翌朝まで少しも残してはならない。いけにえの骨を折ってはならない。すべては過越祭の掟に従って行わねばならない。
9:13 汚れているのでもなく、旅に出ているのでもなくて過越祭を祝わない者があれば、その者は自分の民から断たれる。なぜなら、彼は定めの時に主に献げ物をささげなかったからである。その罪を自分で負わねばならない。
9:14 あなたたちのもとに寄留する者が、主のために過越祭を祝おうとするならば、過越祭の掟と法に従って祝わねばならない。この掟は寄留者に対しても、その土地に生まれた者に対しても、あなたたちに等しく適用される。

詩篇 119:1 いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
119:2 いかに幸いなことでしょう 主の定めを守り 心を尽くしてそれを尋ね求める人は。
119:3 彼らは決して不正を行わず 主の道を歩みます。
119:4 あなたは仰せになりました あなたの命令を固く守るように、と。
119:5 わたしの道が確かになることを願います あなたの掟を守るために。
119:6 そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても 恥じ入ることがないでしょう。
119:7 あなたの正しい裁きを学び まっすぐな心であなたに感謝します。
119:8 あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください。

ルカ 10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

ある律法学者がイエス様を試そうとして、どの戒めが一番重要であるか尋ねた記事は、ルカ10章のほか、マタイ22章34~40節、マルコ12章28~34節にも同様のことが記されている。
その中で「善きサマリヤ人のたとえ」として知られるイエス様の教えが語られているのは、このルカ10章のみである。
イエス様が「善きサマリヤ人のたとえ」を語られたのは、イエス様に「どの戒めが一番重要か」と尋ねた律法学者が、自分を正当化しようとして「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエス様に尋ねたことによる。
この律法学者は、当然自分は周囲の人々に対し、善を行っていると自負していたであろうし、自分は一点の曇りもなく律法の戒めを守っていると考えていたからであろう。
しかし、イエス様が語られた「善きサマリヤ人のたとえ」では、自分たちが普段相手にしていないような貧しい人たちや、汚れたものたちと考えて無視していたような人達を愛していくべきことが問われているし、このたとえの最後のところで、誰が襲われた人の隣人になったかとイエス様が問われていることから、このたとえが、誰を助けるべきなのかといった視点だけではなく、誰に助けられるべきなのか、誰に助けてもらったのかということに視点を置き換えて問われているものであることが伺える。
私たちはともすると、自分は正しくて、誰かを助けてあげられるなどと思いがちであるが、本当はそうではなく、滅びゆく愚かな罪人でしかない。
そんな滅びゆく愚かな罪人を愛し、救って下さるのはだれなのか、イエス様だけがこの滅びゆく愚かな罪人を救って下さる真の隣人であることを思わずにはいられない。
自分を正当化して生きようとしている間は、イエス様の本当の姿やイエス様の贖いが必要であることは見えにくい。
自分が今にも滅びつつあるものであることを知り、そんな私をも愛し、救おうとしてくださるイエス様の深い愛を、そのことを心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして覚え、生きていきたいものである。

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