列王上 22:24 ケナアナの子ツィドキヤがミカヤに近づいて頬をなぐり、「主の霊はどのようにわたしを離れ去って、お前に語ったというのか」と言った。
22:25 「あなたが身を隠そうと部屋から部屋へと移る日にそれが分かる」とミカヤは答えた。
22:26 イスラエルの王は命じた。「ミカヤを捕らえ、町の長アモンと王子ヨアシュのもとに引いて行って、
22:27 言え。『王はこう言われる。この男を獄につなぎ、わたしが無事に帰って来るまで、わずかな食べ物とわずかな飲み物しか与えるな。』」
22:28 ミカヤは王に、「もしあなたが無事に帰って来ることができるなら、主はわたしを通して語られなかったはずです」と言い、「すべての民よ、あなたたちも聞いておくがよい」と言った。
22:29 イスラエルの王は、ユダの王ヨシャファトと共にラモト・ギレアドに攻め上った。
22:30 イスラエルの王はヨシャファトに、「わたしは変装して戦いに行きますが、あなたは御自分の服を着ていてください」と言い、イスラエルの王は変装して戦いに行った。
22:31 アラムの王は配下の戦車隊の長三十二人に、「兵士や将軍には目もくれず、ただイスラエルの王をねらって戦え」と命じていた。
22:32 戦車隊の長たちはヨシャファトを見たとき、「これこそイスラエルの王にちがいない」と言い、転じて彼に攻めかかろうとした。ヨシャファトは助けを求めて叫んだ。
22:33 そこで戦車隊の長たちは、彼がイスラエルの王ではないと知り、追うのをやめて引き返した。
22:34 ところが一人の兵が何気なく弓を引き、イスラエル王の鎧の胸当てと草摺りの間を射貫いた。王は御者に言った。「手綱を返して敵陣から脱出させてくれ。傷を負ってしまった。」
22:35 その日、戦いがますます激しくなったため、王はアラム軍を前にして戦車の中で支えられていたが、夕方になって息絶えた。傷口から血が戦車の床に流れ出ていた。
22:36 日の沈むころ、「おのおの自分の町、自分の国へ帰れ」という叫びが陣営の中を行き巡った。
22:37 王は死んでサマリアに運ばれた。人々はこの王をサマリアに葬った。
22:38 サマリアの池で戦車を洗うと、主が告げられた言葉のとおり、犬の群れが彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。
22:39 アハブの他の事績、彼の行ったすべての事、特に彼の建てた象牙の家、彼の建てたすべての町々については、『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。
22:40 アハブは先祖と共に眠りにつき、その息子アハズヤがアハブに代わって王となった。

詩篇 54:1  指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。
54:2 ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。
54:3 神よ、御名によってわたしを救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください。
54:4 神よ、わたしの祈りを聞き この口にのぼる願いに耳を傾けてください。
54:5 異邦の者がわたしに逆らって立ち 暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。
54:6 見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。
54:7 わたしを陥れようとする者に災いを報い あなたのまことに従って 彼らを絶やしてください。
54:8 主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ 恵み深いあなたの御名に感謝します。
54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。

ローマ 11:25 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
11:26 こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。
11:27 これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」
11:28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
11:29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
11:30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
11:31 それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
11:32 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

イエス様が真の救い主としてこの世に来られた時、多くのイスラエルの民は心を頑なにし、イエス様を拒み、ついには十字架にかけて殺してしまった。
しかし、皮肉なことに、そのおかげでイエス様の十字架の贖いにより、救いの御業が成就したのである。
その後も、イエス様を信じる者たちに対する迫害などにより、宣教の御業は異邦人へと広がり、世界中に神の福音の言葉が宣べ伝えられていったのである。
実に不思議なことであるが、それもまた神のなさった救いのご計画と言えるのだろう。
私たちの周りでも、思いがけないこと、思いもよらないことが起きたりするが、何が転じて幸いとなるかもしれない。
だから、傲慢にならず、常に謙遜に、身の回りで起こる事にも対処していきたいものである。
かえって、何でも知っていると思っていた自分が、実はそうではなく、何も分かっていなかったということを示されるかもしれないし、それはそれで感謝なことと言えるであろう。
自分の過ちを示された時には、そこにこそ、悔い改めと神の赦し、救いの御業があることを覚えつつ、感謝な心で受け止め、従順なものへと変えられて歩ませていただきたいものである。
そのような歩みの中にこそ、本当の意味でのイエス様との出会いがあるのだろうから。

Write a comment:

Your email address will not be published.